イスラエルよ、主を待て
イスラエルよ、主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。(詩篇130:7)
信仰とは待つことであり、待つこととは信頼することだ。
だれかと約束をする。
その相手を信頼するから、待つ。
詩人は、このとき何らかの苦悩の中にあった。
主よ、深い淵から私はあなたを呼び求めます。(1)
「深い淵」とは、どのような場所だろうか。
光が届かない場所だ。
自力では上れない場所だ。
身動きもとれない場所だ。
ただし、上を見上げることはできる。
主よ、私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。(2)
ひとは、どんな状況であっても神に祈ることはできる。
この道がふさがれたら、わたしたちは生きていけないのではないか。
主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立てるでしょう。しかし、あなたが赦してくださるゆえに、あなたは人に恐れられます。(3-4)
いまの苦悩の原因は、自分の不義にあるのではなかろうか・・・。
詩人はそう考え、苦しんだに違いない。
しかし、一点の罪をも見過ごしにされない神がそこに目を留められるなら、どこに希望があるだろう。
いや、神は赦してくださるからこそ、人は畏怖しつつ神を見上げるのだと、詩人は気づく。
私は主を待ち望みます。私のたましいは待ち望みます。主のみことばを私は待ちます。私のたましいは、夜回りが夜明けを、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。(5-6)
夜回りは何よりも“光”を待っている。
「深い淵」に、かすかな光が差し込んでくる。
希望が湧いてくる。
イスラエルよ、主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。主は、すべての不義から、イスラエルを贖い出される。(7-8)
「〇〇よ、主を待て」と、自分の名前を入れてみよう。
「深い淵」にあっても、詩人はできることをした。
主に祈ること、主を待つこと。
この態度を見倣おう。
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)