主が私に耳を傾けてくださる
私は主を愛している。主は私の声、私の願いを聞いてくださる。主が私に耳を傾けてくださるので、私は生きているかぎり主を呼び求める。(詩篇116:1-2)
主は私の願いを聞いてくださる、主は私に耳を傾けてくださる。
このように確信できるひとは、ほんとうに幸いだ。
そして、わたしたちはそのような確信を持っていいのだ。
わたしたちの主は、生けるまことの神であられるのだから。
しかし、ひとはみな罪人であり、なかなか神に呼び求めようとはしない。
だからこそ、神は苦難を送られる。
死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ、どうか私のいのちを助け出してください。」(3-4)
詩人は、敵の罠に陥って死に直面したのだろうか。
6節は、そう読み取ることができる。
主は浅はかな者をも守られる。私がおとしめられたとき、私を救ってくださった。(6)
「浅はかな者」は、わたしのことだ。
そんなどうしようもない者をも、主は守ってくださる。
私のたましいよ、おまえの全きいこいに戻れ。主が、おまえに良くしてくださったのだから。(7)
「全きいこい」、なんと麗しい言葉だろう。
完全なる罪の赦し、きよめ、交わり、守り。
真にここに帰ることができるのは、キリストの十字架の贖いによる。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)
15節も印象的なみことばだ。
主の聖徒たちの死は、主の目に尊い。(15)
死を免れようと、死を通ろうと、聖徒たちの死は、主の目に尊い。
忌み嫌うことではなく、尊い。
ああ、主よ、私はまことにあなたのしもべです。あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解いてくださいました。(16)
わたしたちも、今日、新たな気持ちで、「私はまことにあなたのしもべです」と告白しようではないか。
はっきりと口にしよう。
主を仰ぎ見よう。
主は、耳を傾けてくださる。
私はあなたに感謝のいけにえを献げ、主の御名を呼び求めます。(17)