主に信頼せよ
主を恐れる者たちよ、主に信頼せよ。主こそ助け、また盾。(詩篇115:11)
115篇は、印象的なみことばで始まる。
私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、ただあなたの御名に、栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。(1)
「主にのみ栄光あれ」と口で言うのはかんたんだ。
しかし、心の底から、自分ではなく主にのみ栄光を帰すのは、かんたんではない。
わたしたちの生まれながらの肉の性質に反することだから。
バプテスマのヨハネは言った。
「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)
4節からは偶像について語っている。
彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても見えず、鼻があっても嗅げない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない。これを造る者も、信頼する者もみな、これと同じ。(4-8)
以前、知人の幼い娘さんの話を聞いた。
ご主人が手を合わせる仏壇に、遊び道具のかわいいお人形をたくさん並べたというのだ。
わたしは思わず吹き出してしまったが、意外に本質を突いた話でもある。
立派な仏像なら拝む価値もありそうだが、人が作ったということにおいては、かわいいお人形も大差ない。
あなたは、お人形さんを拝む人だろうか?
イスラエルよ、主に信頼せよ。主こそ助け、また盾。アロンの家よ、主に信頼せよ。主こそ助け、また盾。主を恐れる者たちよ、主に信頼せよ。主こそ助け、また盾。(9-11)
なにを、だれを、信頼するか。
たいせつな問いかけだ。
万物の創造主、まことの神を信頼せよ、と詩人は教える。
わたしたちは偶像に信頼しないかもしれない。
しかし、どうだろう。
主を信頼する以上に、お金や、健康や、特定の人間を頼りにしてはいないか。
主を信頼する以上に、これまでの経験や知識を信頼してはいないか。
この点においても、先のバプテスマのヨハネの祈りを必要とする。
「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)
実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。(2コリント1:9)