乳離れした子が、母親とともにいるように
まことに私は、私のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が、母親とともにいるように、乳離れした子のように、私のたましいは私とともにあります。(詩篇131:2)
131篇は全部で3節と短いが、非常に心にしみ入る詩篇だ。
「ダビデによる」とある。
ダビデは、言うまでもなく、当時の世界に冠たる王だ。
その彼が、こう告白している。
主よ、私の心はおごらず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに、私は足を踏み入れません。(1)
たいていの人は、上に立つほどおごり高ぶりやすい。
ひどい場合は、物事の分別がつかなくなって、人の宝物に平気でかぶりついたりする。
ダビデの偉いところは、自分がおごりやすく、高ぶりやすい者であると知っていたことではないだろうか。
だから、このような祈りをささげたのだ。
まことに私は、私のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が、母親とともにいるように、乳離れした子のように、私のたましいは私とともにあります。(2)
この詩篇は、つぎのように問いかけてくる。
あなたは、いま、ヘンに力んではいないか。
焦ってはいないか。
背伸びしてはいないか。
力みや焦りや背伸びは、平安を失わせ、疲弊させる。
それはもしかすると、自分のおごり高ぶりから来るのかもしれない。
神を押しのけて、及びもつかない大きなことや奇しいことに足を踏み入れようとしているのかもしれない。
そんなときは、「たましいを和らげ、静め」る必要がある。
神の御前に「乳離れした子」にすぎない、その事実に立ち返る必要がある。
与えられた賜物は、十分に生かそう。
しかし、そこに“野心”が潜んでいないか、よくよく注意しよう。
小さくても、名も無き者であっても、何事か大事を成さなくても、主のいのちに生きて花咲くならばすばらしいことだ。
イエスさまが言われた「自分を捨て」とは、そういうことだろうか。
イスラエルよ、今よりとこしえまで、主を待ち望め。(3)
「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。こんな小さなことさえできないのなら、なぜほかのことまで心配するのですか。」(ルカ12:25-26)