大きな淵
「そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」(ルカ16:26)
ルカ伝16章19~31節は、ぜいたくな金持ちと貧乏人ラザロの、死後の世界の話だ。
ルカらしい描写で、まるで絵本を見ているかのようだ。
ぜいたくに遊び暮らした金持ちは、死んでのち、ハデスの炎の中で苦しむ。
金持ちの家の門前で寝ていたラザロは、死後、父アブラハムのふところに憩う。
冒頭は、父アブラハムの金持ちに対する言葉だ。
わたしの手もとにある解説付き聖書には、この話から以下のことがわかると書いてある。
(1)死後も意識が継続する
(2)地獄の責苦が実在する
(3)死後に救いの機会がない
(4)死者と生者との交流は不可能である
いずれも厳粛な内容だ。
もう一度、4つをじっくり読んでみてもらいたい。
これは、聖書が告げていることだ。
すなわち、嘘でも作り話でもなく、事実だ。
これ以上厳粛なことが、あるだろうか。
多くの人は言う。
「キリストの救い?いまはけっこうです」と。
死ぬ間際に滑り込めればいい、ということだろうか。
そういう人に悔い改める機会が与えられるかどうか、保証はない。
愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。
彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。
善を行なう者はいない。
主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。
善を行なう者はいない。ひとりもいない。(詩篇14:1-3)
ハデスと天国の間には、けっして越えることのできない「大きな淵」がある。
死んでからでは遅いのだ。
地上に生があるいまこそ、イエスさまのまえに頭を下げ、悔い改めることが求められている。
「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(2コリント6:2)