みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

キリストとともに千年の間

この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。(黙示録20:6)

 

黙示録は、終盤に近づくほど難解になる気がする。

時間軸が前後したり、同じ出来事が異なる表現で書いてあったりして、混乱してしまう。

いま地上に生きるわれわれの理解をはるかに超えているため、詳細に語ることを避けてあるのかもしれない。

理解すること以上に大切なのは、主を信頼することであるから。

 

19章の最後で、反キリストと偽預言者、および彼らの信奉者たちは、火の池に投げ込まれた。

20章のはじめでは、悪魔が捕らえられる。

不思議なことに、悪魔はこの時点では「火の池」ではなく「底知れぬ所」に投げ込まれる。

 

彼(御使い)は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕らえて、これを千年の間縛り、千年が終わるまで、これ以上諸国の民を惑わすことのないように、底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ、その上に封印をした。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになる。(2-3)

 

悪魔の活動は、千年間縛られる。

 

また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねれらた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。残りの死者は、千年が終わるまでは生き返らなかった。これが第一の復活である。(4-5)

 

これが、いわゆる「千年王国」と呼ばれるものだ。

艱難期に救われた者も含め、主イエスの救いにあずかった者たちがキリストとともに治める地上の国だ。

そのとき、わたしたちは新しいからだを持ち、「第一の復活」にあずかっている。

 

どれほど麗しい世界だろう。

地球環境は、劇的に改善している。

「千年」というととんでもなく長く感じるが、たとえば日本の千年前は平安時代に該当する。

そう考えると、それほどでもないと思う。

いや、やはり長いか。

 

ともかく、救いにあずかっている者たちは「第一の復活」を与えられ、「第二の死」とは無関係である。

 

悪魔は、千年後に再び解かれ、諸国の民を惑わして(惑わされる民が千年王国にも大勢いることに驚くが)、主と聖徒たちに戦いを挑み、ここでようやく「火と硫黄の池」に投げ込まれる。(7-10)

 

また私は、大きな白い御座と、そこについておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。・・・それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。(11・14-15)

 

これが「白い御座のさばき」と呼ばれるものだ。

救いにあずからなかった者たちがよみがえり(第二の復活)、キリストによってさばかれ、「火の池」に投げ込まれる(第二の死)。

 

こうして見ると、聖書ははっきりと「いまの人生は死んで終わるものではない」と告げている。

多くの人が、死んだら終わりで、すべて消え去る、魂も無くなると考えている(もしくは考えたがる)。

しかし、聖書はそう言っていない。

かならず“さばき”の座につく。

非常に厳粛な事実だ。

 

主よ、多くのことはわかりませんが、あなたを信頼いたします。アーメン。

 

「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村