わたしはすべてを新しくする
すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ。わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」(黙示録21:5)
悪魔も、反キリストも、偽預言者も、不信者たちも、「火の池」に投げ込まれた。
それから主は、「すべてを新しく」される。
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。(1)
わたしたちがいま住んでおり、「千年王国」においても継続されていた天・地・海は、すべて消え去る。
そして、「新しい天と新しい地」が創造される。
この啓示は、ペテロにも与えられていた。
その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(2ペテロ3:12-13)
この「新しい天と新しい地」に置かれる都が、「新しいエルサレム」だ。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。(2)
そこは神の臨在と慰めが満ちている場所だ。
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(3-4)
さて、このような話になると、「クリスチャンとはなんと荒唐無稽なお話を信じていることか」と考える人たちも少なくないだろう。
しかしこれは、神話じみた作り話でも空想話でもない。
聖書を信じる者たちは、神の約束として、将来必ず成就する“事実”として受け取るのだ。
「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」(5)
わざわざこう語られた。
それほど確かな約束であるからだ。
「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイ24:35)
黙示録の続きを見よう。
「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」(7-8)
8節は、主が「火の池」に投げ込まれた者たちのリストだが、読んではっとした。
最初にきているのは「臆病な者」だ。
不信仰や人殺しや淫らなことや魔術などよりも先に、「臆病な者」が挙げられている。
それほどに「臆病」は、主の嫌われることなのだ。
信仰とは、勇敢な行為だ。
信じていなければ、すべてをあずけることはできない。
“雄々しくあれ、強くあれ、恐れるな”というメッセージは、聖書全体でくり返し出てくる。
わたしたちも、いま一度、主を見上げ、みことばに勇敢に立ち、主の約束された天の故郷を目指して進もうではないか。
しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。(へブル11:16)