みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

わたしはすぐに来る

これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。(黙示録22:20)

 

いつだったか、夢を見た。

緑溢れる森の中にいた。

ひとすじの小川が流れ、水面はキラキラと輝き、やわらかな木漏れ日が差し込んでいた。

どこまでも清く、あたたかく、心地良い世界だった。

目覚めたとき、(天国はあんな所なのだろうな)と思ったのを覚えている。

 

黙示録を読むと、この夢を思い出す。

 

御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒した。(1-2)

 

都とは、21章に出てきた「新しいエルサレム」のことだ。

 

もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。(5)

 

夢でなくとも、春の陽光の中、桜を愛で、清流の輝きを見るとき、神様はなんとあたたかく優しい世界をお造りになったことかと思う。

であればなおのこと、「新しいエルサレム」、「新しい天と新しい地」は、筆舌につくし難いほどすばらしいことだろう。

いまの地上は、人間の罪ゆえに不完全なものであり、いずれ消え去る。

しかし、わたしたちに約束された新しい世界は、主のご臨在が満ち満ちた完全な世界なのだ。

 

御使いは私に言った。「これらのことばは真実であり、信頼できます。」(6)

 

もちろん、理解もできなければ、証明もできない。

だからこそ、信じることができる。

 

「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」(7)

 

冒頭の20節及び12節と合わせて、新約聖書の最後であるこの章に「わたしはすぐに来る」とのことばが三度も記されている。

主が、最後に最も強調したかったことと言えるのではないか。

 

「かならず来る」ではなく、「すぐに来る」と言われていることに留意したい。

信徒が眠りこけたり、「主人はまだだ」と侮ることなく常に備えるためであり、また、主のスパンが人間のそれとは違うことを心に留め置くためではないかと思う。

 

この約束から二千年が過ぎた。

わたしたちは二千年と言っても、主にとっては二日くらいだ。

 

しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(2ペテロ3:8-9)

 

黙示録の啓示は、「すぐに起こるべきこと」(6)と言われている。

明らかなのは、いまは二千年前よりもはるかにその成就に近づいているということだ。

黙示録は、ますます「すぐに起こるべきこと」となってきた。

わたしたちは、黙示録を通して、いまをどうとらえ、どう生きるかを、学ばされるのだ。

 

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。(黙示録1:3)

 


 

 さて、昨年7月12日から始めたこのブログも、新約聖書を一日一章ずつ書き連ねて、ようやくすべての章を終えた。

飽きっぽいわたしがよく一日も休まずに書けたものだと感心すると同時に、主が書かせてくださっているのだなと感謝することしきりだ。

信仰をもって30年近くなるが、これほど聖書を注意深く読んだことはなかった。

ブログを書くことが、何よりもわたし自身のためになっていると強く思う。

よって、引き続き次回からは『詩篇』を読んでいきたいと思っているので、今後ともよろしくお願いいたします。

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村