みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

神の憤りの大きな踏み場

御使いは地上に鎌を投げて、地のぶどうを刈り集め、神の憤りの大きな踏み場に投げ入れた。都の外にあるその踏み場でぶどうが踏まれた。すると、血がその踏み場から流れ出て、馬のくつわの高さに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。(黙示録14:19-20)

 

14章では、救われた者たちの勝利と、神に従わない者たちへのさばきが描かれる。

ことにさばきに関しては、15章以下で描かれる「七つの鉢のさばき」の概観となっている。

 

また私は見た。すると見よ。子羊がシオンの山の上に立っていた。また、子羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。・・・彼らは御座の前と、四つの生き物および長老たちの前で、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかは、この歌を学ぶことができなかった。(1・3)

 

艱難期に救われ、主の証人となるイスラエルの民、十四万四千人だ。

彼らは、エルサレムの山上で「新しい歌」を歌う。

 

続いて、三人の御使いが登場する。

一人目は、「永遠の福音」を宣言する。(6-7)

二人目は、「大バビロン」の滅びを宣言する。(8)

三人目は、「獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者」へのさばきを宣言する。(9-11)

 

そのあとに、雲の上に座っておられる「人の子のような方」が現れる。(14)

この方が再臨のキリストであることは疑いないが、鎌で「地の穀物」を刈り取る箇所に関しては解釈が分かれる。

救いの民を刈り取る救いの意味なのか、滅びの民を刈り取るさばきの意味なのか。

正直に言って、わかりにくい。

どちらとも取れそうだ。

よって、わからないままにしておこう。

 

17節に出てくる御使いの刈り取りは、さばきであることが一目瞭然だ。

冒頭のみことばにあるように、その光景はおぞましい。

人々が流す血が、馬のくつわに届くほどになるという。

 

「都の外にあるその踏み場」とは、エルサレムにあるヨシャパテの谷のことだそうだ。

救いの中心も、さばきの中心も、エルサレムなのだ。

エルサレムこそが、今日においても世界の焦点であることに変わりない。

 

さて、とばしていたが、12節に挿入句的なみことばがある。

 

ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である。(12)

 

これこそが、黙示録が書かれた最大の目的だ。

新約聖書の手紙の多くは迫害下にある信徒たちを励ますために書かれたが、黙示録も例外ではない。

目に見える現実だけを見ると、この世のあり様は実に不公平で、理不尽だ。

しかし黙示録は、神は最後にはすべてを公平にさばかれる方であることを示している。

信仰と忍耐が試されるところだ。

 

愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。(ローマ12:19)

 

 

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