昼も夜もその教えを口ずさむ
幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、嘲る者の座につかない人。主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。(詩篇1:1-2)
今回から『詩篇』を読んでいきたいと思う。
いや、クリスチャンであれば、だれもがそうであろう。
人間のあらゆる感情が素直に表現され、とても身近に感じるのだ。
『詩篇』は、おおむね2500年前にできたものだという。
日本でいえば弥生時代であり、卑弥呼の登場までまだ700年もある大昔だ。
それほど古い書物でありながら、現代のわたしたちが全く心合わせて読むことができるのは、神のなさる奇跡と言っていい。
同じ生ける神を見上げている証拠でもある。
詩篇1篇は短いが、印象深い。
「悪しき者」と「正しい者」の違いについて、端的に述べている。
1節に、“罪人の三段階”が見られる。
- 悪しき者のはかりごと(心)
- 罪人の道(誘惑)
- 嘲る者の座(行為)
罪の種はいつも、“心”のなかに蒔かれる。
そこですぐに対処しなければ、それはあっという間に強力な“誘惑”となり、罪という“行為”を犯させる。
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。(箴言4:23)
2節の人物は、対照的だ。
彼の口には、朝から晩まで、「主のおしえ」がある。
ああ、こうなりたいと、切に思う。
朝、聖書を読み、御霊の力に満たされていても、昼になる頃にはすっかり忘れているのがわたしの常だ。
晩には、自分の至らなさに打ちひしがれていることが多い。
イエスさまは、言われた。
「まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。」(マタイ12:34)
無意識に口からふと出てくる言葉は、その人の心を表している。
それは良い言葉だろうか、汚い言葉だろうか、主のおしえだろうか、世のおしえだろうか。
その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。(3)
この「流れ」は、主を信じる者たちにすでに与えられている。
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。(ヨハネ7:37-39)
わたしたちには、「生ける水の川」である御霊が与えられている。
勇気を出して、昼も夜も主のおしえを口ずさみ、豊かに実を結ぼうではないか。
まことに、正しい者の道は主が知っておられ、悪しき者の道は滅び去る。(6)