みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

大事なのは新しい創造です

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6:14-15)

 

パウロの手紙には、「誇り」に関する警告が頻繁に出てくる。

それほど「誇り」は罪の本質につながるものであり、わたしたちにまとわりついて離れない厄介な性質ということだろう。

 

だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。(3-4)

 

「ほんとうにその通りです」と言いたくなるような言葉だ。

そして不思議なことに、これを素直に認めると安堵感がやって来る。

 

疲れたり、傷ついたり、妬んだり、腹を立てたり・・・、その多くが自分の取るに足らないプライドから生じる。

しかし、自分がほんとうは大した者でもなんでもなく、弱く、情けない者であることは、自分でよくわかっているのだ。

 

神はそんなどうしようもない者を慈しんでおられると、聖書は告げている。

 

父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちが土のちりにすぎないことを心に留めてくださる。(詩篇103:13-14)

 

パウロは、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。」(14)と言った。 

自分を誇ることほど、神の御前に恥ずかしいことはない。

土のちりにすぎないのだから。

 

しかし、そのような無価値な者をご自身の血潮という尊い代価を払ってまで買い取ってくださったお方、奴隷のくびきから解放してくださったお方、死の恐怖から解放してくださったお方、それが「私たちの主イエス・キリスト」だ。

 

自分を誇るような、あるいは何者かにでもしようとするような、そんなちっぽけで馬鹿げたことはもうやめよう。

それは、キリストの死を無意味にすることだ。 

新しく生まれた者として、御国を目指して、主だけを誇りとしながら歩もうではないか。

 

自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(8-9)

 

 

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