みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

勇気を出しなさい

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。(使徒23:11)

 

あるときはユダヤ人の群衆に向かって、またあるときは議会の権力者たちに向かって、パウロはまっすぐに主イエスを証ししつづけた。

そのたびに、暴動や論争が起き、彼はもみくちゃにされた。

 

論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと恐れた。(10)

 

さすがのパウロも、肉体的にも精神的にも、疲労困ぱいしていた。

それをだれよりもわかっていたのが、ほかでもない、イエスさまだった。

 

その夜、主がパウロのそばに立って・・・

 

いつもは見えないお方が目の前に姿を現し、そして言われた。

 

「勇気を出しなさい」

 

この一言でパウロは、どれほど力づけられたことだろう。

まさに勇気百倍の言葉だ。

 

なぜイエスさまは、わざわざ姿を現し、直接語りかけられたのだろうか。

それほどパウロが弱っていた、ということだと思う。

彼もまた、励ましを必要とする生身の人間だったのだ。

 

パウロは手紙の中で、自分の「強さ」ではなく、「弱さ」を誇ると書いた。

 

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(2コリント12:9-10)

 

ここでパウロは「弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難」と列挙したが、「弱さ」以外はすべて他者からのもので、「弱さ」だけが自らに起因するものだ。

それは、克服したり、打ち消したりすべきものではなく、主の力の現れとなるためにゆだねるべきものだということだろう。

 

「弱いときにこそ強い」、これはキリスト者が体験しうる素晴らしい真理のひとつだ。

 

自分を強く、大きく見せようとすると、かならず無理が生じ、疲れてしまう。

強い“ふり”に過ぎないからだ。

そんな"ふり"は捨てて、あの夜のパウロのように、弱い者として主の御前に出よう。

 

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:15-16)

 

 

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