みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

神のみそばにいることが、幸せです

しかし、私にとって、神のみそばにいることが、幸せです。私は、神である主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げます。(詩篇73:28)

 

表題に「アサフの賛歌」とある。

アサフは、ダビデ治世下で聖歌隊を指揮する一人として用いられた人だ。

その人物の賛歌であるからには、さぞかし力強いものかと思いきや、そうならないのが聖書の面白いところだ。

 

まことに、神はいつくしみ深い。イスラエルに、心の清らかな人たちに。けれどもこの私は、足がつまずきそうで、私の歩みは滑りかけた。(1-2)

 

詩人は、神のいつくしみ深さを知っている。

にもかかわらず、彼の信仰の歩みは危なっかしい。

2節の最後は、以前の訳では、「すべるばかりだった」となっていた。

 

私の信仰生活はつまずいてばかり、滑ってばかりです、と聖歌隊の長が告白しているのだ。

 

なぜ、そのように不安定な歩みなのか?

 

それは、私が悪しき者が栄えるのを見て、誇り高ぶる者をねたんだからだ。(3)

 

詩人は、わかっていた。

自分のなかにある、成功者への「ねたみ」が原因だ。

 

このあたりは、大いに共感できるところではないだろうか。

わたしの内にも、それがあることを告白せざるを得ない。

「ねたみ」は、信仰の歩みにとって大きな罠となる。

 

しかし、ねたみたくなるのも無理はない。

 

実に、彼らの死には苦痛がなく、彼らのからだは肥えている。人が苦労するときに、彼らはそうではなく、ほかの人のように、打たれることもない。(4-5)

 

格差社会”と言われる今日、この状況はますます広がっている。

このような成功者が、神の前に敬虔に祈る者になることは稀で、たいていはその逆だ。

 

それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の衣が彼らをおおっている。・・・そして、彼らは言う。「どうして神が知るだろうか。いと高き方に知識があるだろうか。」見よ、これが悪しき者、彼らはいつまでも安らかで、富を増している。(6・11-12)

 

キリストのことばを思い出す。

 

「金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」(マタイ19:23-24)

 

詩人は、神の前に静まり、光が与えられてはじめて、目が開かれる。

 

ついに私は、神の聖所に入って、彼らの最後を悟った。まことに、あなたは彼らを滑りやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。ああ、彼らは瞬く間に滅ぼされ、突然の恐怖で、滅ぼし尽くされます。(17)

 

奢れるもの久からず、彼らは突如、滅ぼされる。

しかし、主を仰ぎ見る者たちは、主が守られる。

 

私の心が苦みに満ち、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は愚かで考えもなく、あなたの前で、獣のようでした。しかし、私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりとつかんでくださいました。(21-23)

 

心が苦みに満ち、内なる思いが突き刺されるのは、聖なる神を知っているからだ。

彼を主がつかんでおられる。

 

あなたのほかに、天では、私にだれがいるでしょう。地では、私はだれをも望みません。(25)

 

結局のところ、真に意味があり、価値があるのは、天も地も貫くものだけだ。

地上のものは、いつか滅びる。

天地の主につながってこそ、わたしたちは一切の空しさや恐れから解放される。

 

この身も心も尽き果てるでしょう。しかし、神は私の心の岩、とこしえに、私が受ける割り当ての地。(26)

 

これこそ、信仰者の持つ確信だ。

 

しかし、私にとって、神のみそばにいることが、幸せです。(28)

 

ここに、ほんとうの幸せを見出した。

ハレルヤ。

地上のものに惑わされず、主ご自身を見上げよう。

 

金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。(へブル13:5)

 

 

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