罪人たちを受け入れて
さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄ってきた。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいて言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(ルカ15:1-2)
「取税人、罪人たち」は、当時の社会で忌み嫌われていた。
その彼らが、「イエスさまの話を聞いてみたい」とやって来た。
これまで、宗教的指導者である「パリサイ人、律法学者たち」の話は聞こうとしなかった人たちだ。
なぜパリサイ人たちの話は聞こうとしなかったのに、イエスさまの話は聞きたいと思ったのか?
答えは、いみじくもパリサイ人たちが言っている。
パリサイ人たちは罪人を受け入れようとしなかったのに対し、イエスさまは「罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする」お方であったからだ。
イエスさまは、つぶやいたパリサイ人らに向かって三つのたとえ話をされた。
いなくなった羊、なくした銀貨、そして放蕩息子のたとえだ。
いずれも、失ったものが見つかったことを大いに喜ぼうというお話だ。
前二つがなくした「所有物」の話であるのに対し、三つめは「愛する息子」の話になっている。
つまり、放蕩息子のたとえでは、「父の愛」が強く語られる。
この「父」は、放蕩して財産を乱費し、ボロボロになって帰って来た息子を抱きしめ、盛大な祝宴を開いた。
言ってみれば、イエスさまは、この「父」のあり方をそのまま実践しておられたのだ。
ところが、ここに登場する「兄」が父を困らせた。
「しかし、兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹くださったことがありません。』」(29)
長年戒めを破らず父に仕えてきたこの「兄」は、パリサイ人や律法学者の立場だ。
これまで真面目に神に仕えてきたのだ、あんなだらしない罪人たちといっしょにしてもらっては困る、というわけだ。
これに対して、「父」はこう語る。
「父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」(31-32)
残念ながら、「父」の心を「兄」は自分の心とはしていなかった。
羊や銀貨のたとえでも、こう語られている。
「帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。」(6)
「見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。」(9)
失われている者を悲しみ、帰って来た者を大いに喜ぶ、「父」の心をわが心としたいものである。
「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(7)