涙で御足をぬらし始め
すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。(ルカ7:37-38)
パリサイ人シモンの家に招かれて、イエスさまが食事をしておられたときのできごとだ。
この女については「罪深い女」としか書いておらず、どのような人物なのかはいっさいふれられていない。
しかし、シモンがつぎのように考えたことからも、人々から忌み嫌われ、蔑まれていたことは明らかだ。
イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。(39)
シモンの心には、イエスさまに対する疑念が湧いている。
(おかしい。この女がわからないとは、この方は預言者ではないのでは・・・)。
もちろん、イエスさまは彼女のことを知っておられた。
知っておられただけでなく、だれよりも理解しておられた。
それは、シモンに向かって言われた、つぎのことばからもよくわかる。
「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。」(44)
シモンは、この女にさわられるのは汚らわしいことだと考えていた。
しかし、イエスさまは、「わたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた」と表現された。
主は、彼女のボロボロにいたんだ心と、ご自身に対する愛とを、よくわかっておられたのだ。
そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。(48)
女の過去のすべてが、このひとことで洗い流された。
彼女にとっては、イエスさまのこのおことばだけで十分だった。
イエスさまはシモンに、こうも言われた。
「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」(47)
わたしは、自分がこの後者になっていないかと、危惧する。
シモンも、イエスさまを愛さなかったわけではないのだ。
だから「いっしょに食事をしたい」(36)と招待したのだし、イエスさまもそれに応じてくださった。
しかし、彼の愛は「少し」だけだった。
自分は正しい、と考えていたからだ。
この女のように、自分がどれほどの罪を赦されているかを知り、もっとイエスさまを愛することができますように。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(1テモテ1:15)