みなのしんがりとなり
イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」(マルコ9:35)
「あのさー、お前はいつもイエスさまの隣りを歩こうとするけど、なに、一番弟子とでも思ってるのか?」
「なんだよ、じゃあ何か?お前のほうが、そうしたいわけ?」
「えっと、だれが最初にイエスさまに呼ばれたんだっけ?」
「そんな呼ばれた順番とか、関係ないじゃないか」
「俺はこの間、山にいっしょに連れて行ってもらったぞ」
喧々諤々。
またまたイエスさまのため息が、聞こえてきそうだ。
イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」(33)
「え」「あの」「んー」。
彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。(34)
だいたい男とは、こんなものだ。
わが身を省みても、似たり寄ったりであることを、認めざるをえない。
情けないとは思いつつも、少しでも人の先に立ちたい、いまの言葉でいえば“マウント”を取りたい、といった思いがこびりついている。
つまり、最後尾だ。
もっとも後塵を拝し、目立つことなく、ゆえに評価されにくい。
しかし聖書では、そのような存在こそがたいせつであると、教えている。
それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。(1コリント12:22)
さらにイエスさまは、「みなに仕える者」になれとも語られた。
クリスチャン作家の三浦綾子さんは、つぎのようなことを書いておられた。
「仕事」という字は、二文字とも「つかえる」と読む。
仕事がおもしろくないという人は、この「つかえる(仕える・事える)」ことを忘れているのではないか、と。
「仕えられる」ことは気分がいいかもしれないが、「仕える」ことのほうが幸福につながる道だろう。
みなの「しんがり」で「仕える者」となることを、忘れないようにしたい。
「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:3-4)