重い荷
「また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。」(マタイ23:4)
マタイ23章では、イエスさまが律法学者やパリサイ人たちに向かって、「忌まわしいものだ」とくり返しながら、その偽善的なあり方を痛烈に批判しておられる。
上は、そのひとつだ。
この言葉は、「律法主義」の本質をずばり突いている。
つまり、人に重荷を負わせるが、自分のことは棚に上げて、助けようともしない。
と考えたとき、わが身を省みる思いになった。
自分が「律法主義」に陥っているときは、どんなときか?
それは、周りの人に対して、ことに家族など身近な者に対して、要求や指示(はっきりいえば小言)が多くなり、イラついているときだ。
たとえば子どもに向かって、「~しなさい」的な言葉が増える。
自分はその昔できていたかといわれれば、できていなかったのだ。
律法主義者は、福音書をみればわかるように、つねに人々を監視している。
すきあらば、罪を指摘しようとしている。
そこには、安らぎなどない。
「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。」(マタイ7:3-4)
イエスさまは、律法を捨てよと言われたのではなく、彼らの偽善的な行ないから離れよと教えられた。
「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」(2-3)
律法主義者は、自分も負えないような重荷を、人に負わせようとする。
しかし、イエスさまはちがう。
主は、重荷をヒョイと背負ってくださったうえで、手をつないで、「いっしょに歩もう」と言ってくださるのだ。
その軽やかで、喜ばしい歩みを、もっと知りたいと思う。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。(1ヨハネ5:3)