ダビデの子にホサナ
そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。
「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(マタイ21:9)
その栄光の場に選ばれたのは、なんと、ろばの子だった。
これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」(4-5)
あのナポレオンは絵画のなかで、白馬にまたがり、きらびやかな衣をまとい、実に勇壮かつ美しく描かれた。
あれがろばの子だったら、まったくサマにならない。
しかし、王の王、万物の主であるイエスさまは、質素な身なりで、ろばの子に乗られた。
これが、わたしたちの王であられる。
だから、わたしたちはイエスさまに惹かれるのだ。
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(マタイ20:25-26)
男も、女も、子どもたちも、「ダビデの子にホサナ」と、イエスさまをほめたたえた。
しかし、この賛美の輪に加わらなかった人たちがいた。
祭司長、律法学者、民の長老たちだ。
「あの男はなんだ。正規の教育も受けておらず、資格試験すら受けてもいないのに、民を教え、煽動している。なに、大工の息子だと!?馬鹿にしておる!」と、言ったかどうか知らないが、おそらくそんなところだろう。
「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」(23)
彼らの心の奥にあったのは、ねたみ、やっかみであり、“専門家”としてのプライドだった。
結局、律法に精通した彼らが、神のひとり子についてまったく盲目だったのだ。
子どものように素直な心で、主を仰ぎ、主をほめたたえながら地上を歩んでいきたいものである。
イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」(16)
正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。(詩篇33:1-3)