一日一デナリ
彼は、一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。(マタイ20:2)
イエスさまがなさったたとえ話の中でも、おそらく、もっとも「納得いかない」という声が上がりそうなのが、この箇所だ。
朝から働いた者も、終業前の1時間だけ働いた者も、同じ「一デナリ」の賃金を支払われた、というお話。
「朝から組」が怒るのも無理はない。
わたしは学生の頃、よく日雇いバイトをしていた。
たいていは工場での単純労働で、立ちっ放しでの作業はきつく、とにかく休憩のベルが待ち遠しかった。
あのとき、もし、終業1時間前から働いた人が5千円を受け取ったとしたら、自分はその7倍はもらえると思っただろう。
けれども、わたされた封筒には5千円・・・・だったとしたら。
間違いなく、腹を立てる。
そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」(11-12)
このとき、もし「朝から組」が、ほかの人たちの報酬を知らずにいたらどうだったか。
なんら心騒がせることもなく、「一デナリ」に満足して帰ったのではないだろうか。
わたしたちの幸福や平安は、他人との比較で、かんたんに揺らぐ。
他人の“インスタ映え”した暮らしぶりを眺めてはため息をついたり、友人がちょっと高価な家電を買ったと聞いてはうらやましがったりしている。
電気など通るか通らないかという国に住む人も、たくさんいるというのに。
仮に、この労務者たちが、主人を心から慕い、敬い、愛していたならどうだろう。
主人は情け深く、寛大なかたで、だれに対してもほんとうに良くしてくれると、誇りに思っていたとしたら。
彼ら自身が、周りの人に声をかけたかもしれない。
「おーい、うちに来て働きなよ。主人はすばらしいおかたで、十分な給料も与えてくださるし、最高の仕事場だよ」と。
「自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」(14)
このようなかたが、わたしたちの主人だ。
嬉しいではないか。
そして、忘れてはいけない。
自分もまた、考えられないほどの恵みにあずかっている「最後の人」なのだ。
私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。・・・主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。(詩篇34:3・8)