わたしにそれができると信じるのか
イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。(マタイ9:28)
マタイ9章では、イエスさまによっていやされた人たちの話が、たくさん出てくる。
中風の人と彼を運んできた人たち、死の床につく娘をもつ会堂管理者、十二年の間長血をわずらっている女、そして目の見えないふたりの人たち。
彼らはみな、イエスさまによっていやされ、よみがえらされるという奇跡にあずかった。
そこには、ある共通点が見られる。
それは、彼らは「イエスさまにはできる」と信じていた、ということだ。
「・・・おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」(18)
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」(21)
彼らは「はい、主よ」と言った。(28)
そして、イエスさまは、彼らの信仰にこたえるようにして、御業を行なわれた。
イエスは彼らの信仰を見て・・・(2)
「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」(22)
わたしは、祈りながらも、勝手に算段している自分に気づく。
(これくらいなら、可能じゃなかろうか)、(これはさすがにあり得ないかな)などと、ヘンな調整をしてしまう。
考えてみれば、主に対して大変失礼なことだ。
彼らは違った。
大胆に、まっすぐに、「主にはできる」と信じきって、御前に進み出た。
そしてイエスさまは、彼らの信仰を見ておられた。
主よ、わたしも彼らのように、大胆で、まっすぐな信仰をもって、祈る者としてください。
ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。(ヤコブ1:6-7)
そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。すると、彼らの目があいた。(29-30)