見ずに信じる
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)
よみがえったイエスさまが弟子たちの前に姿を現わされるという、その肝心なときに、なぜかトマスだけがいなかった。
仲間がいくら「たしかに主を見たんだよ」と証言しても、彼は頑として聞かず、「俺は釘跡を見て、指を差し入れて、わき腹に触れないかぎり、ぜったい信じない」と言い張った。
自分だけ蚊帳の外になってしまった悔しさがかいま見れて、トマスには悪いが、ほほえましい。
そこから次にイエスさまが姿を現わされるまで、実に8日間あった。
この間のトマスの心境やいかに。
おそらく(信じたい)と(いいや、信じられない)の間を、行ったり来たりしたのではなかろうか。
このトマスの姿はそのまま、現代のわたしたちの姿でもある。
「復活?そんなこと本気で信じているのか。じゃあ、証拠を見せてくれ。証明されたら信じるから」
「信じたいような、でもだまされたくないような、どうすれば信じられるのか。いっそのこと目の前に現われてくれればいいのに」
わたしには、長い間そういう時期があった。
それはいま思えば、わたしにとっての「8日間」であった。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手をみなさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(27)
イエスさまは、トマスの言葉をなぞるように、ご自身を現わし、手を差し出された。
トマスに見えていなかっただけで、主はすべてご存知だったのだ。
「見ずに信じる」、これが主に喜ばれる信仰だ。
見えない、感じない、理解できない、納得いかない、だけど信じる。
ヘブル人への手紙11章は、「信仰の章」といわれる。
アベルから始まり、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ・・・と、「信仰によって」神とともに歩み、神に喜ばれた人たちの信仰列伝だ。
彼らは神を信仰によって仰ぎ見、地上を「旅人であり寄留者」として歩んだ。
いまわたしたちには、完成された聖書が与えられている。
聖書のみことばを全面的に信頼し、主を見上げて信仰によって歩む者でありたい。
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。(ヘブル11:1-2)
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(2コリント4:18)