みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

聖書が成就するため

それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。(ヨハネ19:24)

 

19章でついにイエスさまは、十字架につけられる。

 

彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」(15)

 

おびただしい数の群衆が、地響きの鳴るような怒声で、「十字架につけろ。」と狂ったように叫び続ける。

何度読んでも、戦慄を覚える。

なぜならば、その叫びが自分の中にも巣くっていることを思わずにはおれないからだ。

 

クリスチャン詩人・水野源三さんの詩をおもいだす。

 

『私がいる』

ナザレのイエス

十字架にかけよと

要求した人

許可した人

執行した人

それらの人の中に

私がいる

 

 

ここに気づくことが、キリスト信仰の入り口ではなかろうか。

 

エスさまは、まるで無力なボロ切れのように扱われ、十字架に上げられた。

このはりつけ場面の記述において、ヨハネ伝には他の福音書にはない特徴がある。

それは、「聖書が成就するため」という言葉が何度も使われていることだ。

 

冒頭の聖句のほかに、あと二回出てくる。

 

この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。(28)

 

この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。(36)

 

ここでいう聖書とはもちろん旧約聖書のことであるが、著者ヨハネは、イエスさまが約束された救い主キリストであることを、より強調して書いているのだ。

 

よくいわれるように、旧約聖書には「救い主が来るよ」ということが書いてあり、新約聖書には「救い主が来たよ」ということが書いてある。

言葉を換えれば、旧約聖書には「完全な救いが成就するよ」と書いてあり、新約聖書には「完全な救いが成就したよ」と書いてある。

 

ヨハネは、イエスさまのつぎのことばも書き残している。

 

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5:39)

 

聖書は、数千年もかかって完成したといわれる。

そんな書物は、ほかに無い。

そのすべての焦点はイエスさまであり、イエスさまこそが聖書の中心である。

驚くべき書物を、わたしたちは読んでいる。

 

キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。(ガラテヤ1:4)

 

 

 

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