みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

聖書はあなたに知恵を与えて

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。(2テモテ3:14-15)

 

パウロは、3章のはじめに、「終わりの日には困難な時代が来る」(1)と書き、人々が不信仰と罪に陥るさまを描写した。

そして、次のように言った。

 

キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます。(12-13)

 

これを受けての言葉が、冒頭になる。

 

学んで確信したところにとどまっていなさい。(14)

 

信仰を強め、確信を持つには、聖書を学ぶ必要がある。

“お勉強”として学ぶのではない。

“生きる糧”として、祈りつつ、真摯にみことばに向き合うのだ。

そして、聖書をきちんと読めばだれでも、「これは本物だ」と分かってくる。

 

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。(16-17)

 

「神の霊感」は、直訳では「神の息吹」だそうだ。

神が著者にご自身の“息吹”を吹き込み、彼をして書かしめられた。

 

こう言うと、「そんな馬鹿な」と思う人が大半だろう。

しかし、聖書の成り立ちを知れば、さもありなんとなるかも知れない。

 

聖書は、全部で66の書物の集合体だ(旧約39、新約27)。

最古の書から最新の書まで、なんと約1500年もの年月をかけて完成している。

著者は、約40人もいる。

 

いまから1500年前というと、日本では奈良時代飛鳥時代よりもさらに古い古墳時代になる。

聖徳太子よりも前だ。

そこから現代までの長い時間(ほぼ日本史全体と言っていい)をかけて、一つの書物が完成したと考えると、驚くしかない。

 

しかも40人が、一同に会するわけでもなく、パソコンにデータを残すわけでもなく、てんでバラバラな立場と文体で書いたのだ。

にも関わらず、始めから終わりまで、見事な調和と統一性を保っているのは、もはや奇跡であり、背後に“一人の著者”がおられると考えなければ説明がつかない。

 

そんな書物は、ほかに無い。

まさに「本の中の本」、「the Bible」だ。

 

まだ聖書を開いたことがなけれぱ、ぜひ手に取ってみてほしい。

 

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」(ヨハネ5:39)

 

この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。それで彼らのうちの多くの人たちが信じた。(使徒17:11-12)

  

 

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