みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

不信仰に驚かれた

それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。(マルコ6:5-6)

 

エスさまはあるとき、ひとりの男のりっぱな「信仰」に驚かれたことがある。

 

エスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」(マタイ8:10)

 

しかし、きょうのこの箇所では違った。

エスさまは、人々の「不信仰」に驚かれた。

それは、あろうことか、イエスさまの郷里だった。

 

「あのイエス君か。あれは大工じゃなかったっけ?最近、あちこちで有名になったらしいが、私たちは昔からよく知っている。弟や妹たちもここにいっしょにいるじゃないか。」

 

つまり、あまり歓迎されなかったのだ。

 

こうして彼らはイエスにつまずいた。(3)

 

注目したいのは、「そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず」の箇所だ。

「行なうことができず・・・」

エスさまでも、できなくなってしまった。

彼らの「不信仰」のゆえに。

 

福音書には、イエスさまの数々のみわざが記録されているが、それらは「信仰」にこたえるかたちで行なわれている。

エスさまは、人々の「信仰」がないところにみわざを現わすことができないのだ。

 

さて、わたし自身を省みると、「信仰」とはいっても、どこか中途半端なものになっている気がする。

まるで、あの父親のように。

 

「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:22-24)

 

エスさまは、ご栄光を現わしたいと思っていても、わたしたちの「不信仰」のゆえに、それができなくなっているかもしれない。

わたしたちの「不信仰」に、驚かれているかもしれない。

 

エスがはいって行かれると、村でも町でも里でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒された。(56)

 

ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。(ヤコブ1:6-7)

 

 

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