食卓の下の小犬でも
しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」(マルコ7:28)
娘を助けてやって欲しいと、イエスさまに訴える母親。
彼女はギリシヤ人、つまり異邦人であった。
するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」(27)
「子どもたち」とはイスラエル人で、「小犬」とは異邦人のことだ。
このイエスさまの、一見そっけない言葉に対して、母親は冒頭のように言ってくいさがった。
結果、娘は救われた。
このやり取りでのキーワードは、「小犬」だ。
このときもし、イエスさまが「犬に投げてやるのはよくないことです」と言われたとしたら、どうだっただろう。
母親は、傷つき、言葉を失ったかもしれない。
というのも、当時、「犬」という言葉はけっして良い意味では使われなかった。
聖書にも、つぎのような事例がある。
どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。(ピリピ3:2)
犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。(黙示録22:15)
わたしたちがイメージするペットや人間の補助者としての「犬」ではなく、むしろ「野犬」に近い扱いだったのだろう。
危険で恐ろしい存在、それが「犬」だ。
しかし、イエスさまは、あえて「小犬」という言葉を使われた。
これなら、当時も、可愛らしいイメージだったに違いない。
母親は、その微妙なニュアンスを感じ取り、賢く答えた。
「食卓の下の小犬」は、その家の者にとって、たいせつな家族だ。
わたしたちもまた、「小犬」すなわち「異邦人」であるが、主の恵みによって神の家族とされた。
そのことを感謝したい。
蛇足だが、聖書には猫は出てこないらしい。
よく「イヌ派」か「ネコ派」かなどと話題になるが、聖書では猫は登場すらしない。
ちなみに、わたしは「イヌ派」である。
私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。(エペソ3:18-19)