エルサレムを瓦礫の山としました
神よ、国々はあなたのゆずりの地に侵入し、あなたの聖なる宮を汚し、エルサレムを瓦礫の山としました。(詩篇79:1)
昔も今も、世界の中心はエルサレムだ。
そこは神の「ゆずりの地」であり、「聖なる宮」がある。
そのエルサレムが、「国々」によって蹂躙されている。
彼らは、あなたのしもべたちの屍を空の鳥の餌食とし、あなたにある敬虔な人たちの肉を、地の獣に与え、彼らの血を、エルサレムの周りに水のように注ぎ出しました。彼らを葬る者もいません。(2-3)
こういった記述を読んでも、現代の日本に生きる者としては、いまひとつピンと来ないというのが正直なところだ。
しかし、おそらく、ユダヤ人、それも敬虔なユダヤ教徒などには、いまもリアルに響く言葉なのだろう。
イエスさまは、エルサレムに入ろうとするとき、都のために泣かれた。
エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら――。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、・・・」(ルカ19:41-43)
エルサレムは昔から、常に騒乱の的であり、平穏な街とは言いがたい。
聖書からみれば、その原因はひとえに、神が選ばれたイスラエルの民の、神に対する不従順にある。
イエスさまは、次のようにも語られた。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。」(マタイ23:37-38)
詩人は問う。
主よ、いつまでですか。とこしえに、あなたはお怒りになるのですか。いつまで、あなたのねたみは、火のように燃えるのですか。(5)
イエスさまの答えはこうだ。
「わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」(マタイ23:39)
神のご計画は、昔も今も、イスラエルの民を中心に展開されている。
彼らが「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と賛美する日が、一日も早く来るように祈ろう。
兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。(ローマ11:25-27)