みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

神にできるのか

そのとき彼らは神に逆らって言った。「荒野で食事を備えることが、神にできるのか。確かに、神が岩を打たれると、水が湧き出て、流れがあふれた。だが神は、パンも与えることができるのか。民のために、肉を用意できるのか。」(詩篇78:19-20)

 

78篇は、全部で72節からなる長い詩だ。

その大半が、出エジプトの際に、イスラエルの先祖がいかに不信仰で、神を怒らせ、また悲しませたかの記述になっている。

 

私たちの先祖が語ってくれたこと。それを私たちは、息子たちに隠さず、後の時代に語り告げよう。・・・彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その命令を守るために。先祖たちのように、強情で逆らう世代、心定まらない世代、霊が神に忠実でない世代とならないために。(3-4・7-8)

 

このために、先祖の恥ともいえる不信仰の歴史を振り返っている。

なかなかできることではないと思う。

 

神は海を分け(13)、雲と炎で導き(14)、岩から水を飲ませられ(15)、イスラエルを奴隷の地エジプトから導き出された。

 

けれども、彼らはなおも神に罪を犯し、砂漠で、いと高き方に逆らった。彼らは心のうちで神を試み、欲に任せて食べ物を求めた。(17-18)

 

これに続くのが、冒頭の19~20節だ。

そこには、「(神に)できるのか」という表現が三度も出てくる。

これが「心のうちで神を試みる」ということだろう。

 

たしかに岩から水があふれたよ、けど、もしかするとあれは偶然だったのかもしれない、さすがにパンや肉は無理だろう、そんなことは神にもできないよな・・・。

 

いまこうして聖書を読む側として、彼らの不信仰を「愚か」と笑うのは簡単だ。

しかし、きっと、同じような態度をわたしも神に対して取っているのだ。

「神にできるのか」と。

 

パンのことで議論する弟子たちに、イエスさまは言われた。

 

「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。・・・わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」「四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」(マルコ8:17-21)

 

全能の方のそばにいながら、そのみわざを何度も目にしながら、「まだ悟らない」のがわたしたちではないだろうか。

 

幾たび彼らは、荒野で神に逆らい、荒れ地で神を悲しませたことか。彼らは繰り返し神を試み、イスラエルの聖なる方の心を痛めた。(40-41)

 

主よ。

わたしの不信仰が、あなたを悲しませ、痛めることがありませんように。

あなたに喜んでいただけることが、わたしの最大の喜びでありますように。

あなたには何でもおできになると信じます。

まず、わたし自身を整えてください。

アーメン。

 

エスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:23-24)

 

 

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