私が弱り果てたのは
私はこう言った。「私が弱り果てたのは、いと高き方の右の手が変わったからだ」と。(詩篇77:10)
77篇は、神への力強い信頼の言葉から始まる。
私は神に声をあげて、叫ぶ。私が神に声をあげると、神は聞いてくださる。(1)
ところが、次節以降を読むと、これは力強い言葉というよりも、自分を叱咤する言葉であると思える。
苦難の日に、私は主を求め、夜もすがら、たゆまず手を差し伸ばした。けれども、私のたましいは慰めを拒んだ。神を思い起こして、私は嘆き悲しむ。思いを潜めて、私の霊は衰え果てる。(2-3)
彼は、苦難にあい、信仰的に沈滞したまま立ち上がれない。
平安を失い、不眠に陥る。
あなたは、私のまぶたを閉じさせません。私の心は乱れて、もの言うこともできません。(4)
詩篇が人を惹きつけてやまないのは、力強い賛美ばかりでなく、このような赤裸々な弱者としての姿がそこに見出されるからだと思う。
そして、何度も言うことであるが、これはいまから三千年も昔のユダヤの人の言葉なのだ。
そんなにも昔の人の言葉が、いまもわたしたちの胸を打ち、共感を呼ぶ。
聖書とは、なんと不思議な書物だろう。
「主は、いつまでも拒まれるのか。もう決して受け入れてくださらないのか。主の恵みは、とこしえに尽き果てたのか。約束のことばは、永久に絶えたのか。神は、いつくしみを忘れられたのか。怒って、あわれみを閉ざされたのか。」(7-9)
ここには、神から見捨てられたかのように感じて意気消沈する詩人の姿がある。
私はこう言った。「私が弱り果てたのは、いと高き方の右の手が変わったからだ」と。(10)
詩人は、正直に私は「弱り果てた」と告白した。
これは、すばらしいことだと思う。
ともすれば、わたしなどは、弱っているくせに“強いふり”をしたがる。
自分は大丈夫ですよ、と。
しかし、それは愚かなことだ。
自分の弱さを自覚し、そこに沈まなければ、主の強さを体験することはない。
弱くていい、情けなくていい、だから主を必要とする。
私は、主のみわざを思い起こします。昔からの、あなたの奇しいみわざを思い起こします。私は、あなたのなさったすべてのことを思い巡らし、あなたのみわざを、静かに考えます。(11)
自分のわざではなく、「主のみわざ」を思い起こすためなら、過去を振り返るのも良い。
彼は、イスラエルをエジプトから救い出された「主のみわざ」に思いを向けた。
主の選びと、守りに。
あなたは御腕をもって贖われました。ご自分の民、ヤコブとヨセフの子らを。(15)
あなたは、モーセとアロンの手によって、ご自分の民を、羊の群れのように導かれました。(20)
わたしもまた、主によって選び出され、贖われた。
そして、今日まで多くの祝福をいただき、守られてきた。
弱い者として、このことに思いを向け、感謝をもって主を見上げよう。
若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。(イザヤ40:30-31)