お着物にさわることでもできれば
彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。(マルコ5:27-28)
だれもが、イエスさまのもとに殺到した。
イエスさまも弟子たちも、文字どおり、もみくちゃにされながら歩いた。
長い年月、病を患っていたこの女性は、痛むからだを引きずりながら、その群衆の中に飛び込んだ。
おそらく何度も弾き出されながら、転びながら、であっただろう。
それでも彼女は、必死に手を伸ばした。
ほんの少しでいい、指先だけでも、お着物にさわることができれば、と。
そして、触れた瞬間、わかった。
すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。(29)
この女性は、痛みをこらえて、はるばるやって来た。
多くの危険をかえりみず、群衆に飛び込んだ。
必死に手を伸ばして、イエスさまに触れようとした。
しかし、いま、わたしたちは違う。
わたしたちは、イエスさまに会うために、遠くまで出かける必要もなければ、危険をおかす必要もない。
なぜなら、わたしたち信じる者のうちに、主は聖霊をとおして住んでおられるからだ。
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。(ローマ8:10)
主がわたしのうちにおられることを、信仰をもって受け取るとき、「罪」の源はたちまちかれる。
わたしたちは、この女性のことを、イエスさまにお目にかかり奇跡を体験したと、うらやましがるかもしれない。
しかしこの女性は、つぎのように言うのではないだろうか。
「あなたたち現代のクリスチャンこそ、主がうちに宿ってくださるのだから、ほんとうにうらやましい」と。
イエスさまを信じる者は、「聖霊の宮」とされていると、聖書ははっきり告げている。
感じるかどうかではない。
信じるかどうかだ。
信仰をもって、みことばを受け取り、内なる主に信頼しよう。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(1コリント6:19)
「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」(34)