どうしてそんなにこわがるのです
イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に、「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」(マルコ4:39-40)
イエスさまが嵐をしかりつけると、たちまち大なぎになった、というこの箇所は、個人的にとても好きなところだ。
特に、嵐の中で眠っておられるイエスさまに魅かれる。
ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。(38)
人は、平安がなければ眠れない。
イエスさまの平安は、嵐の中でも、ぐっすり眠ることができるほどだった。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)
ところで、今回この箇所を読んで、ふと思った。
もっとも荒れやすく、すぐに波風が立つものは、何だろう?
わたしの心ではないか、と。
さっきまでの平安が、ちょっと条件が変わるだけで、大嵐に変わる。
残念ながら、それが現状だ。
弟子たちは、イエスさまに不信仰をとがめられたが、わたしも似たようなものだ。
しかし弟子たちにも、ひとつだけ偉かったことがある。
それは、イエスさまを起こし、イエスさまに助けを呼び求めたことだ。
弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」(38)
弟子たちは、「イエスさまはお疲れだから、起こしてはだめだ」とか、「海のことは俺たち漁師がプロだから、イエスさまを起こしても意味はない」などとは、考えなかった。
また、彼らが、イエスさまの真似をして「黙れ、静まれ」と言ったところで、何も変わりはしない。
弟子たちにできた最善のことは、イエスさまに頼ることだった。
ここにわたしは、慰められる。
たとえほめられた信仰でなくとも、イエスさまに呼びかけよう。
いっさいの権威をお持ちの方に、素直に頼ろう。
苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。(詩篇50:15)
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)