みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

律法全体と預言者とが

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37-40)

 

律法の専門家が、「イエスをためそうとして」(35)尋ねた。

 

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」(36)


動機は悪かったが、質問は良かった。

エスさまが、ていねいに答えておられる。

 

「神を愛せよ」「隣人を愛せよ」、この二つの戒めに「律法全体と預言者」とがかかっている。

実に、重い言葉だ。

 

「律法全体と預言者」とは、旧約聖書そのものといっていい。

つまり、あのぶ厚い旧約聖書は、この二つの心柱で支えられている。

この二つの戒めを書くために旧約聖書は書かれた、と言っても過言ではない。

 

神がもっとも伝えたかったことが、この二つの戒めなのだ。 

それは神の切なる願いであり、わたしたち人間にとって最高の祝福の道でもある。

 

ところが、罪に落ちた人間は、その道から外れてしまった。

 

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。(創世記3:8)

 

最愛で全幅の信頼を寄せていた主なる神が、怖くて会いたくない存在に変わってしまった。

しかもこのあと人は、罪の責任を妻になすりつけた。

 

人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(同12)

 

人類最初の二人にして、すでに二つの戒めが破られていることを、ここに見る。

カエルの子はカエル、罪人の子は罪人だ。

その後、今日に至るまでの人類がどうであるかは、言わずもがなである。

 

エスさまは、十字架の死をとおして完全なる罪の赦しを成し遂げられ、わたしたちが「神の子」として回復される道を開かれた。

御霊によって新しく歩み、神を愛し、隣人を愛する、祝福の道に立ち返ろう。

 

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。(1ヨハネ4:10-11)

 

 

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