青銅の蛇
モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。(民数記21:9)
イスラエルの民は、カナンの地に向けて新たに進み始めた。
しかし、水のない荒野で、民はまたしてもモーセに不満をぶつけた。
しかし民は、途中で我慢ができなくなり、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」(4-5)
彼らの不平に対し、主は厳しく対処された。
そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。(6)
非常に殺傷能力の高い蛇だったことがわかる。
民は態度を一変させ、モーセに祈ってくれるよう頼む。
モーセは民のために祈った。すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」(7-8)
そして冒頭のように、そのとおりになった。
「信仰」という言葉は、すばらしい言葉だと思う。
「信じて、仰ぐ」のだ。
信じて理解するのでもなければ、信じて納得するのでもない。
ただ、仰ぎ見る。
これが信仰の本質だろう。
まさに、幼子のわざだ。
「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)
この青銅の蛇は、そのまま主イエス・キリストを予表している。
蛇にかまれた民は、毒が体内に巡っているにもかかわらず、青銅の蛇を仰ぎ見れば助かった。
同様に、罪の毒におかされた人間も、主イエスを仰ぎ見れば救われる。
日々の信仰の歩みにおいてもまた、同様だ。
わたしたちの肉にはいまだ毒が存在するが、主イエスを仰ぎ見れば、毒は力を失う。
さまざまな戦いや誘惑の中にあっても、その都度、主イエスを仰ぎ見よう。
約束の地目指して、信仰から信仰へ、勝利から勝利へと、進もうではないか。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14-15)