みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

新しいぶどう酒は新しい皮袋に

「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」(マルコ2:22)

 

政府により「新しい生活様式」が提唱されて、4ヶ月が経つ。

「新しい生活様式」という言葉じたいが古めかしいと感じたのはわたしだけではないだろうが、それはともかく、浸透しているのかいないのかよくわからない状況だ。

 

厚生労働省のウェブサイトを見ると、細かい具体例が思いのほかたくさん載っている。

人との距離の置き方、手の洗い方、スポーツや娯楽時の留意点、交通機関の使い方、食事のとり方、はては働き方に至るまで、まるで現代の律法のようだ。

それらは人を未知のウイルスから守ると同時に、人を縛るものでもある。

けっして人を自由にし、幸せにするようなものとは思えない、やむを得ない処置だ。

 

エスさまは、「新しい生活様式」どころではない、「新しいいのちの歩み」を提唱された。

それは、生活様式を変えるといったような、ちっぽけな話ではない。

生き方そのものが根本的にひっくり返るほどの大転換であり、人を解放し、真に幸せにするものだ。

 

ポイントは、花婿といっしょにいることだ。

 

エスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。」(19)

 

パウロは、こう書いている。

 

こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。(コロサイ2:16-17)

 

律法は神のみこころであるが、それは「キリストの影」だというわけだ。

影と本体と、どちらが大事かは言うまでもない。

パウロは、続ける。

 

あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとするものに、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。(同18-19)

 

花婿であり、本体であり、かしらであるキリストに結びつくことは、いっさいの宗教的行為にまさる。

 

そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては何のききめもないのです。(同23)

 

断食をはじめとする宗教的行為は、「賢いもののように」見える。

これは、わたしたちキリスト者も陥りやすい点だ。

 

ことに日本人の場合、クリスチャンに対し、堅苦しい、偽善的、不自由、といった印象を持っていることが多い。

だから、「ああ、クリスチャンですか。お酒も飲んじゃいけないんでしょ?日曜も教会に行かなきゃいけないんでしょ?ご苦労ですねぇ」ということになってしまう。

いわゆる、クリスチャンでなく「クルシー(苦しい)チャン」だと思われている。

 

こうなってしまう主要因は、わたしたちクリスチャンが新しいぶどう酒を古い皮袋に入れているところにある。

新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れる、新しい歩みのすばらしさを、もっと知ることができるよう祈りたいと思う。

 

主よ。

わたしのなかにある、見せかけの形式的なものを示し、そこから離れることができるよう助けてください。

いのちにある生き生きとした歩みを知り、キリストにある自由を喜ぶことができますように。

主の御名によって、アーメン。

 

安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」(27-28)

 

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:4)

 

 

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