からだのあかり
「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身が明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように気をつけなさい。」(ルカ11:34-35)
どんなにきらびやかな服で着飾っても、「目が悪い」と、全身が暗い。
しかし、どんなに質素な身なりでも、「目が健全」なら、全身が明るい。
「からだのあかりは、あなたの目」とは、キリスト者であろうとなかろうと、よく理解できることばだ。
「目が健全」な人とは、どのような人だろう。
自分が神の御前に、清さとはほど遠い者であることを、知っている人ではないだろうか。
自分の心の奥底に、「十字架につけろ」という恐ろしい声が存在することを、知っている人ではないだろうか。
"キリストのしもべ"として生きた人たちの、あの透き通るようなまなざしは、そこから来ている気がする。
イエスさまは、「あなたのうちの光が、暗やみにならないように気をつけなさい」と言われた。
光を暗やみにしてしまうもの、それは言うまでもなく、わたしたちの"罪"だ。
アダムとエバは、食べてはならない木の実を食べ、神から隠れた。
このときの彼らの目は、「悪い目」だったに違いない。
あらためて、その箇所を読むと、「目」についての記述が多いことに気づく。
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け・・・」(創世記3:4-5)
そこで女が見ると、その木は、・・・目に慕わしく・・・(同6)
このようにして、ふたりの目は開かれ・・・(同7)
このとき以来、人類は「悪い目」を引き継いでいる。
つまり、神への敵対、神との不一致だ。
きょう、わたしの目はどうか。
罪を告白し、十字架の血潮に信頼して、神との平和に立ち返ろう。
あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたを、ご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。(コロサイ1:21-22)