みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

世界が存在する前に

「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ17:5)

 

この17章は、一章まるごとイエスさまの祈りだ。

天に上げられるのを間近に控え、天を見上げ、弟子たちのために、また彼らを通して主を信じるようになる人々のために、祈られた。

 

冒頭のことばはその一節だが、あまりに壮大で、圧倒される。

 

ヨハネ福音書は、イエスさまがどういうお方なのかを、他の福音書以上に深く、はっきりと示す。

この方は、「もとから世におられ」(1:10)る、「父のふところにおられるひとり子の神」(1:18)であり、「上から来る方」(3:31)であると、くり返し記している。

 

本章においても、イエスさまご自身、祈りの中で何度も語られた。

 

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(3)

 

「彼らは・・・わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」(8)

 

「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(18)

 

「そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」(21)

 

「それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(23)

 

「また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。」(25)

 

これだけイエスさまは、「あなたがわたしを遣わされた」とくり返されたのだ。

 

世の人々は、イエス・キリストについて、キリスト教の教祖だとか、二千年前に出現した偉人だとか、世界史上稀にみる聖人君子の一人などと、考えている。

 

しかし、これらのみことばから見れば、そのようなとらえ方がまったくお門違いであることがよくわかる。

 

すべての思想も、宗教も、哲学も、人間が生み出したものにすぎない。

つまり、人間がいなくなれば、消え去るものだ。

しかし、まことの神は、人間が生み出したものではなく、人間を、この世界を、創造したお方だ。

仮に人間がいなくなったとしても、厳然と存在されるお方だ。

 

そのお方がご自身を啓示されたのが聖書であり、ご自身の現われとして遣わされたのがイエス・キリストである。

 

このキリストによって世界は造られたと、聖書ははっきり告げている。

偉人の一人として扱ってしまうことじたいが、すでに恐ろしい罪であるのは言うまでもない。

 

主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。・・・神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。(箴言8:22-31)

 

 

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