異邦人にもお与えになったのだ
人々はこれを聞いて沈黙した。そして「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。(使徒11:18)
「ぼくのお父さんは、ぼくだけを愛してくれる、ぼくだけのお父さんだ」と思っている子に、「実は、きみのお父さんは、みんなを愛する、みんなのお父さんなんだよ」と言ったら、どういう顔をするだろうか。
ペテロから、神が異邦人にも聖霊を注がれたことを聞いたユダヤ人の兄弟たちは、まさにそんな心境だったろう。
彼らは一様に「沈黙した」とある。
この「沈黙」に、ユダヤ人がいかに独特な意識を持っているかが現われている。
彼らははじめ、ペテロが異邦人たちと食事したことを非難した(3)。
また、迫害で諸地方に散った兄弟たちも「ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった」(19)。
それほど徹底して、異邦人との交際を避けていたのがユダヤ人だ。
まことの神を知っているのは自分たちだけであり、神に選ばれたのも自分たちだけであり、神の救いにあずかるのも自分たちだけだ、と思い込んでいたのだ。
異邦人にも聖霊?
そんなことがあるのか。
しかし、ペテロの話は本当のようだ。
ならば、わたしたちの神は異邦人にも手を伸べられるお方なのだ。
最終的に、彼らは「神をほめたたえた」。
少々文脈からそれるが、わたしたちはともすると、「霊的けちんぼ」になる危険があるのではないだろうか。
言葉を換えると、「栄光を独り占め」しようとする精神に陥るのだ。
みなが祝福にあずかることよりも、(心の奥では)自分が祝福され、自分がほめたたえられることを期待する。
あるいは、自分だけがあの霊的指導者の言葉を理解しているとか、この教派こそが真理を体現しているなどと考え、他者を否定したりする。
そこに陥っていないかをためすリトマス紙は、他の人に与えられた祝福を「ともに喜べるかどうか」だ。
朝早く雇われた労務者は、主人の恵み深さを喜んでいれば、夕方から雇われた労務者を祝福できただろう。
忠実な兄は、父の愛を喜んでいれば、放蕩して帰った弟を、父と同じく抱きしめたことだろう。
「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。(18)
昔の兄弟たちの、この態度に倣いたいものである。
私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。(詩篇115:1)
イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。(1ヨハネ5:1)