自分には罪がないと言うなら
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。(1ヨハネ1:8)
『ヨハネの手紙第一』に入った。
この手紙も“ザッと読み”で、まずは骨格をつかむ。
すると、次のような状況に対して書かれたことが、浮かび上がってくる。
- 罪に対する妥協
- 兄弟を憎むことや口先だけの愛
- 反キリストによる惑わし
これらに対し、罪から離れること、兄弟を愛すること、反キリストを見分け警戒することを説いている。
1章はわずか10節と短いが、その内容は実に深淵だ。
私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。(5)
「神は光」だという。
光は、直視できない。
光は、どこまでも真っ直ぐだ。
光は、あらゆるものを照らし出す。
ある人が、「神のご性質にもっとも近いのは光ではないか」と語っておられたが、さもありなんだ。
さらに、こう続く。
もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(6-7)
神との交わり、互いの交わり、それは人が光の中を歩むときに健全に保たれる。
では、光の中を歩むとはどういうことか?
罪を完全に犯さないことなのか?
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。(8)
薄暗い部屋では、汚れは気にならない。
しかし、そこに光が差し込み、明るくなると、さまざまな汚れが目にとまる。
光に透かしたら、空中のちりさえもはっきり見えてくる。
そのようにわたしたちは、光なる神に近づくほど、自らの罪に気づかされる。
とても「自分には罪がない」などとは言えなくなるのだ。
しかし、絶望する必要はない。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(9)
神が「真実で正しい方」であるなら、罪を赦さず、むしろ厳しいさばきに処して当然だ。
しかし、まことの神は、罪を赦し、すべての不義からきよめてくださる。
罪から離れて歩むことと、日々罪を悔い改めることは、キリスト者の歩みにおいて両輪だ。
罪の赦しときよめを確信して、光の中を歩もう。
イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)