すべての人に悔い改めを命じて
「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒17:30)
さて、パウロはアテネで二人を待っていたが、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。(16)
もし、パウロがいまの日本に来たら、どう思うだろうか。
彼は毎日、ユダヤ人たちや哲学者などと論じ合った。
そしてあるとき、すすめられるままに、まことの神について語った。(22-31)
ここでのメッセージは、ユダヤ人たちに対してしたものとは違い、イスラエルの歴史や聖書(旧約聖書)の預言にはふれていない。
むしろ、町で見かけた言葉や、ギリシヤ人たちも知る詩人の言葉を巧みに引用しながら、創造主なる神およびキリストの死と復活について論じている。
一読してわかるように、いまの日本人にもそのまま伝えたい内容だ。
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。・・・神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。」(24・26)
まことの神は、世界のすべてのものをお造りになった。
そして人間を造り、地の全面に住まわせ、時代と境を定められた。
「それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。」(27)
本気で神を知りたいと求めるなら、かならず神はその人にご自身を現わしてくださる。
その点において、裏切られたという人はひとりもいない。
「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒17:30)
「無知の時代」と「今」の違いは何か。
神が遣わされたひとり子、イエス・キリストの死と復活が成し遂げられたことだ。
「なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」(31)
キリストがすべての人の罪の身代わりとして死なれ、三日目によみがえった。
このことを信じるか否かが、さばきの基準となったのが「今」だ。
ところが、このパウロの言葉への人々の反応は残念なものだった。
死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った。(32)
現代の日本人の多くも、このような反応をすることだろう。
「復活?そんなことを信じるとは、たいしたものですね」と。
しかし「信じる」とは、「理解」や「納得」とはまったく次元の違うものだ。
幼子のように「信じる」者だけが救われるという道を開かれた神を、私はあがめざるをえない。
創造主なるまことの神に立ち返ることが「悔い改め」だ。
それは「宗教に入る」ことを意味しない。
むしろ「宗教的世界から解放される」ことを意味する。
神は、すべての人に悔い改めるよう語りかけておられる。
「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)