みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

すべてのものを造られた生ける神

「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。」(使徒14:15)

 

生まれてから歩いたことがなかった人を、パウロが癒し、歩かせたというので、人々はパウロバルナバを「神々」のように扱い始めた。

とうとう彼らに対し牛のいけにえをささげようとまでしたので、パウロは上のように叫び、必死に制止した。

 

ペテロも、自分を拝もうとする異邦人に向かって「私もひとりの人間です」(9:26)と言い、やめさせている。

 

真の主のしもべは、人から崇められ、称賛されることを、徹底して避ける。

反対に、称賛を求める、あるいは許している者は、真の主のしもべとは言えない。

 

パウロは自分たちについて、人々が神でないものを神のように扱う「空しいことから離れて」、万物の創造主なるまことの「神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている」のだと語り、さらにつぎのように続けた。

 

「神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません。あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」(16-17)

 

このメッセージは、日本人のわたしたちにもわかりやすい。

パウロは、万物の創造主がおられること、この方が「雨」「実り」「食物」「喜び」で人々の心を満たしてくださっていることを、あかしした。

 

ローマ人への手紙では、パウロは厳しい口調でこう書いている。

 

神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。・・・彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。(ローマ1:20-21・25)

 

今日、日本人の多くも創造主の存在を認めようとはしない。

すべては偶然の産物で偶然の流れの中で流転していくに過ぎない、という世界観が広がっている。

 

しかし、ここでパウロははっきりと告げている。

「彼らに弁解の余地はありません」と。

 

だれでも、わかるのだ。

あらゆる偏見を捨て、プライドを捨て、宗教を捨て、子どものように胸に手を当てて静かに考えれば、わかるのだ。

この世界は、創造主なる神が造り、生かしておられる、と。

 

もし4歳の子どもが、「ぼくは神など信じない」と言ったら、周りの大人は心配するだろう。

しかし、神から見れば、4歳も40歳も80歳も変わらない。

あなたは、神の前にどんな子だろうか。

 

あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。・・・私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。(詩篇8:3-4・9)

 

 

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