みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

みことばは、あなたの近くに

では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:8-9)

 

10章は、一読してわかるように、聖書(旧約聖書)からの引用が多い。

実に12回もみことばを引用しており、引用元もレビ記申命記イザヤ書、ヨエル書、詩篇と幅広い。

パウロが、キリストの福音を聖書全体から解き明かそうとしていることが、見てとれる。

 

ここでの主題は、つぎのみことばにある。

 

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。(4)

 

「信じる者は救われる」とは一般的にもよく使われる言い回しだが、この10章のテーマがそのものずばりだ。

 

信じるだけでいいなどと言われると、人はかえって戸惑う。

そんなうまい話があるものか、と。

そして、もっとあれやこれやをしなければいけないと考える。

しかしその態度は、キリストの成し遂げられた救いを冒とくするものだ。

 

しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。(6-7)

 

人は、天の高みに上ろうとし、あるいは地の深みを探ろうとする。

何者かになってやろう、見つけてやろう、真理をつかみ取ってやろう、というのだ。

幼子のように与えてもらう姿とは、ほど遠い。

 

自らの努力で救いをつかもうとすることは、梯子を伸ばして太陽に届こうとするようなものだ。

この先どんなに科学技術が発展しようとも、太陽の中に飛び込むことはできないだろう。

聖書は、そんな愚かなたくらみを捨てて、すでに溢れるほどに注がれている陽射しを素直に浴びなさいと言っているのだ。

 

救われる以上に、簡単なことはないという。

小さき者として、イエスさまを信じ、仰ぎ見ればよい。

思いもしなかった喜びと平安に包まれるはずだ。

 

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(10-11)

 

 

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