ご自分を空しくして
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:6-7)
2章のはじめにパウロは、皆が一つ心で愛し合うよう奨励し、その模範としてキリストを語った。
6節は、注釈どおりに直訳すると、
神と等しくあることを固執すべきこととは考えず、
となる。
神であるお方が神と等しくあることに固執されなかった、というのだ。
驚くべきことに違いないが、事があまりに大き過ぎて、とても理解はできない。
ただ、とてつもなくすごいことであるのは間違いない。
何かに固執することがさまざまな苦悩の原因であるとは、仏教でも言っていることだ。
ただ、仏教の場合は、すべてが「無常」であることを悟れと説く。
聖書は、神であるお方が神であることに固執せず、しもべとなり、人間となられた、ということを事実として告げている。
この事実を受けて、あなたはどうかと。
しかも、人間となられただけで終わらない。
人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(7-8)
全人類、すなわちすべての罪人の身代わりとして処刑されるために、極刑の中でももっとも恥辱と苦痛に満ちた「十字架の死」にまで従われた、というのだ。
そこには、偉大なる目的があった。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(9-11)
この世界は、無目的な無常の世界ではない。
意味があり、目的がある。
だからこそイエスさまは、「神と等しくあることを固執すべきこととは考えず」、「十字架の死」にまで従われた。
極限までへりくだられた方に、感謝と賛美を献げようではないか。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。(ヘブル12:2)