みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

神は愛です

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。(1ヨハネ4:16)

 

聖書は、分厚い。

文字数にしてどのくらいなのか、想像もつかない。

もし、この分厚い聖書を、凝縮して凝縮して、極限まで凝縮して、ひと言にしたならば、この言葉になるだろう。

 

神は愛です。

 

地球をサイコロ大まで凝縮すると、強大な引力を持つブラックホールになると聞いた。

同じようにこの言葉は、聖書全体を凝縮したほどの強力なみことばだ。

 

神を見失い、罪の中に死に、その結果人生の意味が分からなくなった人類は、過去の長い歴史においてさまざまな世界観を作り出し、信じてきた。

哲学も、宗教も、無神論も、人間が作り出したものに過ぎない。

 

生きておられる、唯一のまことの神は、人間が作り出したものではなく、人間をお造りになったお方だと、聖書は告げている。

この方は、永遠の昔から永遠の先まで存在される。

 

しかし、ただ存在しておられるだけではない。

この方は「愛」そのものだというのだ。

神が存在することだけでも人間には何の文句も言えないが、この方は「愛」なのだ。

 

神は愛です。

 

わたしは、これこそが全宇宙を貫く、最も素晴らしい真理だと思う。

 

その「愛」の証拠は何か?

 

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(9-10)

 

もし人生に空しさを覚えているなら、何のために生きているのかわからないなら、すべては無意味だと投げ出したくなっているなら、それは聖書が告げているとおり、あなたがまことの神を見失い、罪の中に死んでいるからである。

そして、そのあなたを神は愛しておられ、あなたの罪のために、なだめのささげ物としてのひとり子イエス・キリストを遣わし、あなたの受けるべき死刑を代わりに受けさせた。

これもまた聖書が告げているとおりだ。

 

このイエスを信じるとき、人ははじめて、神の愛に帰ることができる。

 

エスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

 

いま自分がどのような状態であれ、「神は愛」であるという聖書のメッセージを固く信じようではないか。

 

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:38-39)

 

 

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