神の子どもと悪魔の子どもの区別
このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。(1ヨハネ3:10)
2章でヨハネは「反キリスト」について書き、その流れで、3章では「神の子ども」と「悪魔の子ども」について述べている。
「神の子ども」については、こうある。
- 将来、キリストに似た者になる(2)
- 自分を清くする(3)
- 罪を犯さない(6)
- 神から生まれた(9)
- 神から出た(10)
- 兄弟を愛する(14)
- 祈りが聞かれる(22)
これに対し、「悪魔の子ども」はこうだ。
- 悪魔から出た(8)
- 罪を犯す(8)
- 兄弟を愛さずに憎む(10・15)
イエス・キリストを信じる者はみな、「神の子ども」だ。
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。(1-2)
ここで、自分は罪を犯してしまうから「悪魔の子ども」ではないかと心配するひともあるだろう。
ひとつ言えるのは、ほんとうに「悪魔の子ども」ならそういう心配はしないということだ。
わたしたちは不完全であり、いまだ肉の性質をひきずる者であるから、罪を犯してしまう。
しかし、何の良心の呵責も感じずに罪を犯し続けることはできない。
「御子から受けた注ぎの油」(2:27)である神の御霊が、それが神の御前に罪であることを示されるからだ。
神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。(9)
以前の新改訳第三版では、ここは「罪のうちを歩みません」となっていた。
神から生まれた者は罪のうちを歩み続けることができないという面と、神から生まれたことを信仰によって受け取るほど罪を犯さなくなるという、この両面が含まれていると思う。
さて、人を「神の子ども」と「悪魔の子ども」に二分することに抵抗を覚えるひとは少なくないのではなかろうか。
特に日本人には、そのような二極化思考を西洋的として嫌うひとが多い。
わたしも、白か黒かといった考えは好きではない。
教会内の分裂や異端の問題の多くも、そういった短絡的思考に起因している。
ただ、聖書がさまざまな点においてそのような世界観を示していることは確かだ。
ある方の聖書講義で、こう聞いた。
「“0か100か”の物差しは、人対神の間においてのみ成り立つものです。これを人対人に適用しようとするところに間違いがあります。人対人においては、50対50であったり、40対60であったりするのであって、0対100ということはあり得ないのです」
問題は、わたしたちが「0対100」の物差しを振りかざして、他者をさばくところにある。
この態度が多くのひとをつまずかせる。
わたしたちは、自分が「神の子ども」とされていることを心から喜び感謝することを大切にしたい。
そのうえで、世に同調することは避けながらも、世の人々を愛する生き方をしたい。
主よ。
あなたは一人として滅びることを望んではおられません。
どうか、世に同調することなく、世の人を愛することを教えてください。
今日の一日を「神の子ども」として歩めることを感謝します。
愛されている子どもらしく、歩ませてください。アーメン。
私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。(23-24)