この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと
この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。(詩篇107:6)
107篇では、上にあげた表現が四度も出てくる。
第一がこの6節で、行くべき場所、住むべき場所を見出せず、さまよう人が登場する。
彼らは荒野や荒れ地をさまよい、人が住む町への道を見出せなかった。飢えと渇きによって、彼らのたましいは衰え果てた。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。(4-6)
第二は13節で、死に直面する者だ。
それは不信仰の結果として描かれる。
闇と死の陰に座す者、苦しみの鉄のかせに縛られている者、彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを退けた。それで主は、苦役によって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。(10-13)
第三は19節。
ここでも罪と死が関連づけられている。
愚か者は、自分の背きの道のため、また、咎のために苦しみを受けた。あらゆる食物を、彼らの喉は受けつけず、ついに死の門に至った。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。(17-19)
第四は28節で、こんどは罪が指摘されていない。
純粋に主が起こされる苦悩ということだろうか。
主が命じて、激しい暴風を起こされると、風が波を高くした。彼らは天に上り、深みに下り、そのたましいは、みじめにも溶け去った。彼らは酔った人のようによろめき、知恵はことごとく呑み込まれた。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から導き出された。(25-28)
多くの苦悩は人間の罪と不信仰に起因するが、主からもたらされるものもある。
いずれにせよ、その目的は一貫している。
人間が「主に向かって叫ぶ」ためだ。
自分自身を振り返っても、まったくその通りと言わざるを得ない。
元来が不信仰であるだけに、悩み苦しむことなしに、主に叫ぶことなどないのだ。
主に叫べば、主が救ってくださる。
そのことを信じて、主の御前に進み出よう。
主が嵐を沈められると、波は穏やかになった。波が凪いだので彼らは喜んだ。主は彼らをその望む港に導かれた。(30)
知恵のある者はだれか。これらのことに心を留めよ。主の数々の恵みを見極めよ。(43)