直接話し合いましょう
あなたに書き送るべきことがたくさんありますが、墨と筆で書きたくありません。近いうちにあなたに会いたいと思います。そうしたら、直接話し合いましょう。(3ヨハネ13-14)
『ヨハネの手紙第三』も、『第二の手紙』と同じく、一章のみの短い手紙だ。
ガイオという人物に向けて、彼が兄弟たちをもてなして真理に歩んでいるのを喜んでいること、またディオテレペスという人物がかしらになりたがって教会をかき乱していることなどを、伝えている。
そして手紙の最後に書いているのが、冒頭のみことばだ。
同じような言葉は、『第二の手紙』にもあった。
あなたがたにはたくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。私たちの喜びが満ちあふれるために、あなたがたのところに行って、直接話したいと思います。(2ヨハネ12)
当時は、いまと違って、電話もなければ、ネットもない。
ちょっとZoomで話しましょう、というわけにはいかない。
思いを届けるには、手紙を出すか、直接会うかのどちらかだった。
ヨハネは、ガイオを心から愛しており、「会いたい」と切実に思っていたのだろう。
長老から、愛するガイオへ。私はあなたを本当に愛しています。(1)
その意味では、当時の人々は、現代に生きるわれわれよりもはるかに、「人と会う」ことの貴重さを知っていたのかもしれない。
次また会えるという確約は、いまよりもずっと薄かったのだ。
ところで、コロナ禍により、この1年で世の中のあり方は大きく変わった。
「人と会わない」ことが推奨され、マスクで顔は隠され、人と人がますます疎遠になった。
この病的ともいえる状態は、新型コロナウイルスよりも悪質ではないかとすら思える。
わたし自身はもともと一人で引きこもるタイプなので、逆に危険を感じる。
人と会わず、人を愛することから逃げてしまうような気がするのだ。
コロナ禍であっても、人を愛することから逃げないようにしたい。
できれば、人と直接会って、話がしたい。
そこには、ガイオのような人物もいれば、ディオテレペスのような人物もいるだろう。
しかし、人を愛する勇気を失わないようにしたいと、最近強く思っている。
兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。・・・彼らは教会の集まりで、あなたの愛について証ししました。(3・6)