汚れを除く水
「汚れた者が身の汚れを除かなければ、その人は集会の中から断ち切られる。主の聖所を汚したからである。汚れを除く水がその人に振りかけられなかったので、その人は汚れている。」(民数記19:20)
19章は、死人によって汚れた場合の取り扱いについて記している。
死人に触れると七日間汚れるとされたが(11)、その扱いは、
- 家の中で死んだ場合(14)
- 外で死んだ場合(16)
の二つに分けられた。
大きな違いは、家の中の場合は、中にいる者だけでなく、「口の開いた器」も汚れるとされたことだ(15)。
この汚れからきよめられるためには、「汚れを除く水」をかけられる必要があった。
「まだくびきを負わせたことがなく、傷のない完全な、赤い雌牛」(2)をほふり、それを焼く中に「杉の木とヒソプと緋色の撚り糸」(6)を入れる。
その灰を器に入れて新鮮な水を加えたもの(17)が、「汚れを除く水」となる。
この水を三日目と七日目に振りかけ、衣服を洗い、水を浴びることで、きよくなるとされた。
考えてみれば、「死」は「罪」の結果だ。
それに触れることだから「汚れる」のは当然だ。
逆に、「汚れを除く水」をかけられてきよめられることは、罪のきよめであり、死からの解放であると言える。
へブル書のことばを、見ておこう。
雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(ヘブル9:13-14)