私の咎が頭を越えるほどになり
私の咎が頭を越えるほどになり、重荷となって、担いきれません。(詩篇38:4)
38篇でダビデは、“三重の苦痛”について告白している。
- 罪の苦痛
- 肉体の苦痛
- 周囲からの蔑みの苦痛
1.罪の苦痛
主よ、あなたの激しい怒りで私を責めないでください。あなたの大いなる憤りで私を懲らしめないでください。・・・あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のゆえ私の骨には健全なところがありません。私の咎が頭を越えるほどになり、重荷となって、担いきれません。(1・3-4)
ダビデの名は、旧約聖書の中でもひときわ輝く名であるが、彼は完全無欠な人物だったわけではない。
そうではなく、神の前で自分の罪を深く自覚した人だった。
「自分を低くする者は高くされる」というのが聖書の大原則だが、その意味ではダビデはだれよりも低くなっていた人だったといえる。
2.体の苦痛
私の傷は、悪臭を放って腐り果てました。それは私の愚かさのためです。私は身をかがめ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩き回ります。私の腰は火傷でおおい尽くされ、私の肉には、どこにも完全なところがありません。(5-7)
何らかの病だったのか、それとも戦傷が悪化したのか、ともかくダビデは肉体的な苦痛の中にあった。
それを、「私の罪のゆえ」(3)、「私の愚かさのため」(5)に、「あなたの矢」(2)として神から与えられたものと受け止めている。
3.周囲からの蔑みの苦痛
愛する者や私の友も、私の病を避けて立ち、近親の者でさえ、遠く離れて立っています。私のいのちを求める者は罠を仕掛け、私のわざわいを願い求める者は私の破滅を告げ、絶えず、欺くことを語っています。(11-12)
近親者たちも近寄ろうとせず、敵は絶えず「おまえは終わった」と侮蔑の言葉を浴びせてくる。
これに対して、ダビデはどう出たか。
しかし私は聞きません。聞こえない人のように。口を開きません。話せない人のように。まるで私は、耳が聞こえず、口で争わない人のようです。まことに主よ、あなたを私は待ち望んでいます。(13-15)
主が正しくさばいてくださることを信じて、黙して抗しなかった。
こう見てくると、これら三つの苦痛は、すべてその後、主イエスが味わったものと同じであることに気づく。
イエスさまは、自分の罪ではなく、全人類の罪を負われた。
イエスさまは、激しい肉体の苦しみを味わわれた。
イエスさまは、人々からののしられ、嘲られ、十字架につけられた。
その意味では、この詩篇もまたメシア預言のひとつと言えよう。
主よ、私を見捨てないでください。わが神よ、私から遠く離れないでください。急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。(21-22)