みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

神を求める者がいるかどうかと

神は天から人の子らを見下ろされた。悟る者、神を求める者がいるかどうかと。(詩篇53:2)

 

53篇は、14篇とほぼ同じだ。

それだけ重要な真理ということである。

 

愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。・・・彼らはことごとく背き去り、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。(1・3)

 

これが神の判断だ。

全員腐っている、こう言われていい気持ちはしない。

いえいえ私の友人の〇〇さんは根っからの善人ですよ、腐っているとはひどいですよ、と言いたくもなる。

 

しかし、2節を見ると、神の言われる「善を行う者」とは、「悟る者、神を求める者」であるとわかる。

みな「ことごとく背き去った」のだ。

 

この神に背を向けた状態のことを、聖書は“罪”と呼ぶ。

神に背を向けていくら善行を積んだとしても、その人が“罪人”であることに変わりない。

生まれながらにして神を見失い、神に背を向け、神と断絶した状態にあること、このことを「罪の中に死んでいる」と聖書は言っているのだ。

人生が空しく、意味がわからず、死を恐れ、全き平安と喜びを失っているのは、このためだ。

 

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、・・・しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。(エペソ2:1・4-5)

 

5節だけが、14篇とは多少異なっている。

 

見よ、彼らは恐れのないところで、大いに恐れた。神が、あなたに陣を張る者の骨を散らされたのだ。あなたは彼らを辱めた。神が彼らを捨てられたのだ。(5)

 

神に敵対している者たちは、恐れなくてよいところで恐れる。

神に身を避ける者たちは、違う。

もちろん、恐れや不安を覚えるが、最終的に神に信頼することができる。

それも漠然とした“神頼み”などではなく、揺るがない“確信”としてだ。

 

死に直面してもなお、「神はいない」と言えるだろうか。

神に背を向け続けることは、恐ろしいことだ。

 

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。・・・敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。(ローマ5:8・10)

 

 

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