滅ぼしはしない。その十人のゆえに
また彼は言った。「わが主よ。どうかお怒りにならないで、もう一度だけ私に言わせてください。もしかすると、そこに見つかるのは十人かもしれません。」すると言われた。「滅ぼしはしない。その十人のゆえに。」(創世記18:32)
18章では、不思議な「三人の人」が登場する。
彼が目を上げてみると、なんと、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはそれを見るなり、彼らを迎えようと天幕の入口から走って行き、地にひれ伏した。(2)
アブラハムが直ちに出迎え、ひれ伏したことから、三人はあきらかに普通の人には見えなかったと思われる。
その後の展開で、三人のうち一人は主で、二人は御使いであることが明らかにされる。
信仰の人アブラハムはひと目で何かを感じたのだろう。
主が一年後にサラに男の子が生まれる約束を告げるが、サラは笑った。(10-12)
三人が発つときのやりとりが16節以下で、非常に印象深いものだ。
その人たちは、そこから立ち上がって、ソドムの方を見下ろした。アブラハムは彼らを見送りに、彼らと一緒に行った。(16)
主と御使いたちが、ソドムを見下ろしている。
想像しただけでも恐ろしい。
主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」(17)
まるでアブラハムが親しい友であるかのようだ。
主は言われた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを、見て確かめたい。」(20-21)
ここからアブラハムの必死のとりなしが始まる。
正しい者が五十人いれば滅ぼすまい、四十五人いれば、三十人いれば、二十人いれば、十人いれば・・・滅ぼすまいと、主は約束された。
しかし結果的に、ロトの家族だけが救い出され、町は滅ぼされることになる。(19章)
聖書は、「義人はいない。ひとりもいない」と告げている。
神の目にかなう正しい人は、ひとりもいない。
だからこそキリストが地に来られ、十字架にかかる必要があったのだ。
神は天から人の子らを見下ろされた。悟る者、神を求める者がいるかどうかと。彼らはことごとく背き去り、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。(詩篇53:2-3)