みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ

さて、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」(創世記17:1-2)

 

17章では、神とアブラム及びアブラムの子孫との間の“契約のしるし”として、「割礼」が出てくる。

その章のはじめに、このみことばがアブラムに与えられた。

 

「わたしは全能の神である。」(1)

 

はじめに神、だ。

あなたがどうしろ、ではない。

神は全能であり、何一つ不可能なことはないと、まず示された。

 

「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(1)

 

「全き者であれ」は、英訳では「be blameless」となっているものが多い。

非難されるところのない者であれ、ということだ。

この解釈がわかりやすいように思う。

完璧(perfect)はあり得ないが、全能の神に依り頼みながら、非難されるところのない歩みをしたい。

 

「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。」(4-5)

 

4~8節は、いわゆる「アブラハム契約」の核心部分だ。

ここで「アブラハム」という名が与えられた。

 

「次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。・・・包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。」(10・14)

 

聖書で重要な意味を持つ「割礼」がここに出てくる。

それを受けない者は民から断ち切られるというほど、非常に厳しい規定だ。

 

また神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。」(15-16)

 

サライも「サラ」と改名され、ここではっきりと彼女が男の子を産むことが宣言された。

もっとも信仰の父アブラハムでさえ、このとき、「そんなことは・・・」と笑った(17)

 

しかし、さすがにアブラハムだ。

「その日のうちに」彼も、イシュマエルも、家のすべての男子に割礼を施している。

即座に従うこの態度を、信仰の父に見倣いたい。

 

そこでアブラハムは、その子イシュマエル、彼の家で生まれたすべてのしもべ、また、金で買い取ったすべての者、すなわち、アブラハムの家のすべての男子を集め、神が彼に告げられたとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。(23)

 

 

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